気ままにシングルライフ

毎日、ご機嫌で暮らしたい*\(^o^)/*。:°ஐ..♡*

子育て=不登校

新しい画面で入力ができるようになって嬉しいです😊

文字や絵文字がサクサク入って。

投稿したらどんな感じになるのだろう…あまり変わらないのかもしれないけれど。


ネットの環境が整ったら、一番に子どもの事を書こうと決めていました。

4人いるので、あまり手がかからなかった次女から始めようと思っていましたが、やっぱり一番手のかかった次男から始めないと話が進まないので。

すみません、かなり長くなります。



4人いると同じように育てているつもりでも、ひとりひとり生まれ持った性格も違うし、思い返すと私たち親の対応も違ったなあ、と思います。


長男と3歳違いで生まれた次男。現在34歳です。

可愛かったんです、小さな頃は。

今はもうおっちゃんですけど笑

ただ、他の子と比べて赤ちゃんの頃あまり笑わなかったように思います。

抱っこしていても、座りが悪いというのか、こうすっぽり収まらない感じなんですよね。

その時は気がつかなかったんですが、後から考えるとという事です。

言葉とトイレはすこし遅かったように思いますが、まあ順調に育ち、保育園(田舎なので、幼稚園がなかった)にも入り、いよいよ、小学校に入学しました。田舎なので、一学年一クラスしかありませんでした。しかも25人くらい。全学年合わせても確か120人くらいだったと思います。

長男は何事もなく学校生活を送っていたので、次男もそうだと思っていましたが、1年生になった5月…

忘れもしません。

急に学校に行きたくない!と言い出しました。

理由を聞いてもただ嫌だ!と。

こちらも理由がわからないので、ただのわがままだと思いましたし、初めの1週間くらいは無理やり車で連れて行きました。もう嫌がるのを力ずくで、車に押しこんで。

ずっと次男は泣いていました。

今、思い返しても涙が出ます。かわいそうなことをしたな…と。


そして、1週間が経った頃、それまで何とか教室にも入って授業を受けていた次男が、入り口の下駄箱のところで動かなくなりました。

それでも私はランドセルごと抱き抱えて、教室まで連れて行きました。

ちようど教室の端っこの所に給食用の長机がおいてあったのですが、次男はその机の下に潜り込んで泣き叫びました。

その姿を見た時…

ああ、もう無理だな…と思いました。

その頃は不登校の知識も全く無かったし、他所ごとくらいにしか考えていませんでした。

でも次男には無理なんだな。と。

母親の勘?…というのか、わかりませんけど。

それで、担任の先生に「連れて帰ります。」と伝えました。

それから、次男の長い長い不登校生活が始まりました。

私にとってもその時の経験は先の見えない長くて暗いトンネルをとぼとぼと次男と2人手を繋いで歩いているような感覚がずっとありました。長かったです。

主人や義母はおりましたけど、必死さが違います。母親は自分が産んで育てているので、こうなったのは全部自分のせいだと思ってしまうんです。

自分を責めて責めて、どこがあかんかったんやろう、なんで?って、ずっと自分を責めていました。

周りの子たちは屈託なく、毎日学校に行って帰ってくる。そんな普通の事が何でできない?

毎日、悩みました。

でも、あの給食の机の下で泣いていた次男の姿を思い返すと無理には連れてはいけませんでした。

学校からも毎日電話がかかってくるし、主人は仕事から帰ってきたら「今日はどうやった?無理にでも連れて行けよ」と言うし。義母とも同居していたので、義母への遠慮もあって、その頃は本当に居場所がありませんでした。

不登校の本を片っ端から読み漁りました。

カウンセラーの方の講演があると聞くと講演に行き、学校の先生方とも不登校の勉強を一緒にさせてもらい…そんな中で1つの結論に達しました。

「無理には学校には連れて行かない。」

小学校中学校の先生方には本当にお世話になりました。足を向けて寝られません。

田舎なので、学校にも行かず、ふらふら遊んでいる子どもは目立ちます。近所のおばあさんが特に辛辣でした。きつかったです。

「また、今日も行かんのか?」何回その言葉を投げかけられたことか。

でも、私もだんだん強くなりました。近所のおばあさんに何を言われても、自分たちは別に人様に迷惑かけてないし、堂々としていようと。私が堂々としていないと、次男が萎縮してしまう…

サッカーボールを持って一緒に空き地に行って日がな一日遊んだり、家でもゲームしたり…

毎日遊んでいました。

勉強は全くしていなかったので、勉強はどんどん遅れる。でもあまり勉強に不安はなかったです。友達関係を心配しました。次男を責める事なく、家で過ごしていたら、次男の方から「学校、行ってみよかな…」と言うようになり、時々ですが、学校に行くようになりました。と、言っても私が一緒でないと行けないので、毎日付いて行ってました。

教室には入れず、私と体育館で遊んだり、運動場で過ごしたり…がほとんどで。

先生方がよく見守ってくださったなあと、感謝しかありません。給食は保健室で私も子どもと一緒に頂きました。給食代を払うからと先生にはお願いしましたが、いらないと。あまり喉を通りませんでしたけど。掃除も子どもたちと一緒になって毎日していました。次男の同級生は素朴な疑問で、私が次男と一緒に学校に来るのが不思議だったようです。当たり前ですよね。うちだけですから。「何でおばちゃんは⚪︎⚪︎くんと一緒に学校に来るん?」

「あのね、みんな頭が痛かったり、お腹が

痛かったりしてしんどい時があるやろ?それと一緒で⚪︎⚪︎は心がしんどいのよ」と、よく答えていました。同級生の子たちはわかったのかわからないのか、「ふーん」と言ってからはもう何も聞いてくる事は無くなって、私にも悪戯したり、遊ぼーと言ってくれたり、廊下の拭き掃除の競争もしたり…子どもたちにも本当に助けられました。次男にも普通に接してくれて。

同級生のお母さんたちからは本当に励ましてもらってばかりでした。影では何か言ってる人もいたかもしれませんが、私の耳には入って来なかったので、入ってこないということは何もないのと一緒ですから。遠足も私も一緒に。小学校の6年間、全部合わせても1/3くらいしか登校していません。掛け算は4年生くらいで覚えました。

5年生の時の担任から言われたことは忘れません。「今、無理にでも学校に来なかったら⚪︎⚪︎くんの将来はありませんよ」とはっきり言われたのを覚えています。私は悔しくて、「将来はあります!学校に来なくても将来はあります!将来を見といて下さい!」と、言い返しました。

何の根拠もなかったんです。でも、悔しかった!

後から、保健室の先生が、「××先生がお母さんとケンカしてしもたーって言ってましたよ」と、笑っておられました。保健室の先生には親身になってずっと支えてもらってました。何でも話していたので、私もその時は「あんな事言われて、めっちゃ悔しいわぁ。」と、答えましたけど。

その後、何年かしてから将来が無いと言ったその担任の先生とばったりお会いする機会がありましたが、その時に謝って下さいました。「お母さんの言う通りでしたね。」と。「そやろー、滅多なこと言うもんちゃうでー」と心の中でちょっと思いました笑

中学校でも登校は半分くらい。最後の受験の頃には自主的に行ってました。不登校生活の最後まで、一環して決めていたのは、「無理には行かせない。自分から行くのを待つ」でした。

高校に入ってからは殆ど休んでいません。サッカー部に入って頑張ってました。下手でしたけど…(^^;;

大学受験も自分で決めて、合格。

でも2年で大学中退。

その後、仕事も自分に向いてないのか何回か転職しました。

2年前に勉強もして、自分に合った仕事を見つけて、関東の方でWEBデザインの仕事につき、頑張っています。

やりたかった仕事らしく、楽しいらしいです!

やっと、今は、安心して見ていられます。

いや、ちょっと心配かな…次男は(^^;;

今のところ、何にも言って来ないので、順調なのでしょう。

子どもの時とは違いますから、敢えてこちらからはあまり世話は焼かないようにしています。

もう、何にも言って来ないでねー、と密かに思っています^_^

不登校生活で心の拠り所になった本です。

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